賀来医院は地域と密着した医療を提供します

賀 来 医 院

KAKU CLINIC / KOBE SPORTS ACADEMY

 賀来家一族は、大分県賀来に現存し仁命天皇の承和3年(836年, 平安時代)に創始された賀来神社の子孫です。すでに江戸時代には医家を営む大探検科学者らがおりました。
 江戸時代・寛政8年(1796年)、賀来有軒(ゆうけん)という人情豊かな大人物が現・豊後高田市(現・賀来医院院長である賀来正俊の誕生地)に医を開業しました。その長男・佐之(すけゆき)は江戸時代の医学最先端の地・長崎でシーボルトやモンデッキから蘭学(西洋医学)と本草学(薬学)を学ぶとともに華岡清州や緒方洪庵らからも西洋医学を習得したかなりの実力ドクターでありました。三男飛霞(ひか)も、炎暑や嵐の中、東北、北陸から琉球・小笠原列島までも含む日本全土を歩き回って薬草などの実態調査をし、それまで中国に頼っていた漢方やヨーロッパから輸入していた鉱物が欠品しても国内で充分に調達できることを証明しました。飛霞は、当時、全国の海岸を測量し廻って大日本沿海輿地図(世界ではじめての精密な日本地図)を作った伊能忠敬(いのうただたか)と並ぶ大探検科学者として国際的にも高く評価されています。その後、飛霞は幕府を通じて全国から小石川薬草園(現・東京大学小石川植物園)に薬草を集めて研究し、その成果を国内最初の植物図鑑である小石川植物園草木図説1-3巻などに表しました。この図説は皆様ご存知の日本植物図鑑に引き継がれるとともに、飛霞は英国植物学会にも名を馳せるなど国際的にも大活躍しました。

 昭和になって、1941年12月に勃発した太平洋戦争(第2次世界大戦)の最中、賀来正義(現院長・賀来正俊の父、外科医、医学博士、剣道5段)は約5年間、中国大陸で野戦病院の院長(軍医)としてジャングルの中、日夜、数千名の負傷兵の手術・治療に没頭しておりました。しかし、終戦2年前の1943年、捕虜となり香港病院の医師として勤務することになりました。豊富な経験と高度な技術を有する正義のもとには、中国では難治であった連合軍の将校たちが次々と訪れ手術を受け治癒していきました。このことは、“敵味方なく友好の架け橋をする日本のドクター”として現地の新聞に載り、最終的には捕虜でありながら院長を任命されるほどに至りました。
 敗戦で帰国した正義は、やはり元軍医の弟・智信(現・兵庫県伊丹市で賀来医院を開業。内科、医学博士、元・京城帝国大学剣道部主将)と力を合わせて、戦禍で病む人々のために郷里・豊後高田で昭和21年(1946年)8月に開業しました。診療所は離れ付きのやや大きめの木造民家を改造したものでしたが、家中患者さんで溢れ家族の住む空間は年々狭くなっていきました。二階の座敷では術後の患者さん同士がよく談笑しておりました。診療費を払えない患者さんたちは、山河で取ってきた鰻や鮎、西瓜や竹の子、鶏が庭で勝手に産んだ卵などを置いていきました。
 1957年、豊後高田市のバイパス道路建設による賀来医院立ち退き命令のため、正義は親戚の多い神戸の現地に賀来医院(外科・内科)を移転しました。これには、田舎町ではできない戦後の進んだ教育を神戸で子供たちに受けさせたいという理由もありました。
 その後1990年8月、正義の跡を継いで長男正俊(内科)が院長となりました。ところが1995年1月17日、あの未曾有の阪神淡路大震災が神戸を襲い賀来家の自宅は全壊して家族3人が生き埋めになり、医院もレントゲン撮影機が吹っ飛ぶほどズタズタに破壊されました。
 それにもかかわらず、家族や職員、多くの知人らによる懸命の復旧活動によって賀来医院は被災10日目に院内診療を再開することができました。午前は院内診療、午後は避難所巡りをして被災者の診療に明け暮れました。震災日より1年間は無料診療にし、2年間無休診療で頑張りました。この時、被災によって協賛企業が撤退する中、かねてより熟慮していた日本初のスポーツボランティア機構・KOBE SPORT ACADEMYを震災年4月に思い切って創設しました。これはスポーツ人による世界平和・自然環境保全などをモットーとする自由な私的機関です。
 1998年、正俊は整形外科医が主流のスポーツ医学の中で総合的な実践スポーツ内科学の必要性を説き「スポーツ内科アカデメイア」(医学書専門出版社・南江堂)にまとめ広めつつあります。 そして2021年には、戦後の賀来医院としては75周年を迎えることができました。今では、国の内外を問わず多くの患者様やご関係の方々が来院され親しく充実した交流がなされています。ひとえに永年の皆様のご厚意のおかげです。ありがたい限りで、心より感謝申し上げます。

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